
私たちは、身体を持って生きている。
この身体で歩き、
この身体で食べ、
この身体で考え、
この身体で人と出会う。
しかし、スピリチュアルな世界では
よくこう言われる。
身体も思考も行動も、
すべては一時的なものであり、
本当の自分ではない、と。
真我、あるいは源泉、
あるいは意識。
それは生まれもせず、
死ぬこともない。
インドの賢者たちは
古くからそのように語ってきた。
現代では
ラメッシ・バルセカール
が、こう言っている。
「身体や思考は一時的な現象にすぎない。
真我は常にそこにある。」
だから
身体にとらわれるな、と言う。
しかし一方で、
私たちは身体を持って生きている存在でもある。
この身体がなければ
歩くことも、
見ることも、
人と話しもできない。
だからこそ、
この身体を大切にする必要がある。
少し考えてみると、
これは自動車と運転者の関係に
似ているかもしれない。
車がなければ
遠くへ行くことはできない。
しかし
車そのものが
自分ではない。
だから
車を大切に整備しながらも、
車そのものに執着する必要はない。
ところが、
非二元の視点はさらに一歩進む。
本当に運転している
「私」という存在は
いるのだろうか。
行為は起きている。
思考も起きている。
しかし
それを完全にコントロールしている
主体は見つからない。
そう考えると、
車も走り、
道も続き、
景色も過ぎ去る。
それでも
誰が運転しているのかは
わからない。
ただ
すべては起きている。
だから、
身体にとらわれる必要はない。
しかし同時に
身体を大切にすることも
自然なことなのだろう。
この身体という車を
丁寧に扱いながら、
それでも
それが自分のすべてではないことを
静かに知っている。
身体は大切にする。
しかし、身体にとらわれない。
そんな生き方もあるのかもしれない。


