
昨日の「等覚院」のつつじ。
8部咲です。
いきなりですが、ひとつ問いかけさせてください。
あなたは今、この文章を読んでいますね。 画面の上を文字が流れていって、その意味を受け取っている。
では、その「読んでいる」のは、誰でしょう?
「わたしに決まっている」と思ったかもしれません。 でも、もう少しだけ立ち止まってみてください。
その「わたし」とは、いったい何のことでしょうか?
「非二元」という言葉に怖がらなくて大丈夫です
非二元(ノンデュアリティ)。
聞き慣れない言葉ですよね。 哲学? 宗教? なんだか難しそう。 そう感じるのは自然なことです。
でも、非二元が指していることは、実はとてもシンプルです。
わたしたちは普段、世界を「二つ」に分けて生きています。
自分と他人。 内側と外側。 考えている「わたし」と、考えられている「対象」。
非二元とは、この「分けている感覚」をそっと見つめ直すことです。 分けることが間違いだと言いたいのではありません。 ただ、「本当に分かれているのだろうか?」と問いかけてみる。 それだけのことです。
台所で気づいたこと
少し、わたし自身の話をさせてください。
ある朝、食器を洗っていました。 スポンジを握って、水を流して、皿の表面を撫でる。 何百回、何千回と繰り返してきた動作です。
ところがその朝、ふと気づいたのです。
「洗っている」のは、手だろうか。 「洗おう」と思っているのは、頭だろうか。 それとも、ただ「洗う」ということが起きていて、 それを見ている何かが、ここにあるのだろうか。
手は動いている。水の音が聞こえている。泡の感触がある。 でも、その全部を「受け取っている場所」のようなものがある。
それは「わたし」という名前がつく前から、ずっとそこにあった気がしました。
この感覚は、頭で理解するものではなく、 気づくものです。
そして、気づいた瞬間、なぜかとても静かな安心感がありました。
思考と気づき ― ふたつの「わたし」
ここで少し整理してみましょう。
わたしたちが普段「わたし」と呼んでいるものは、 たいてい思考のことです。
「わたしは○○が好き」「わたしは○○が苦手」 「わたしはこういう性格で、こういう過去がある」
これらはすべて思考です。 頭の中に浮かんでくる言葉やイメージ。 それを「わたし」と呼んでいるのです。
でも、もうひとつの「わたし」があります。
その思考が浮かんでくるのを見ているもの。
考えが浮かんでは消えていく。 そのことに気づいている、静かな何か。
非二元が指しているのは、この気づいている方のあなたです。
今日、ひとつだけ試してみませんか
非二元は、本を読んで理解するものではありません。 暮らしの中で、ふと気づくものです。
だから、今日ひとつだけ試してみてください。
何でもいいのです。 歯を磨いている時、靴を履いている時、ドアノブを回す時。
その動作をしている最中に、そっと問いかけてみてください。
「今、これをしているのは誰だろう?」
答えを出す必要はありません。 答えが見つからなくても、まったく問題ありません。
ただ、問いかけた瞬間に何が起きるか。 そこに少しだけ、注意を向けてみてください。
もしかしたら、ほんの一瞬、思考が静かになるかもしれません。 その一瞬の静けさの中に、何かが在ることに気づくかもしれません。
それが、非二元への最初の一歩です。
この先、一緒に歩いていきましょう
このブログ「ここにある」では、 こうした問いかけを日常の中で続けていきます。
大きな答えを出すためではありません。 ただ、いつもの朝が少し違って見えるかもしれない。 いつもの動作の中に、思いがけない静けさを見つけるかもしれない。
そんな気づきを、あなたと一緒に分かち合えたらと思っています。
次回は、朝の静かな時間を使った ちいさな実践についてお話しします。
あなたは今、何に気づいていますか?


