
前回の記事では、「非二元」という言葉を少しだけほどいてみました。
「今、これをしているのは誰だろう?」
そんな問いかけを、日常の動作の中でしてみること。 答えを求めず、ただ問いの中にとどまること。
その問いかけがたいせつなんですね。
今回は、その問いかけを 朝のちいさな時間の中に置いてみたいと思います。
朝、目が覚めてから何をしていますか
目が覚めた瞬間のことを、思い出してみてください。
何をしますか。
気がつけば、まだベッドの中にいるのに、 頭の中はもう「今日一日」を走り始めている。
目が覚めてから体を起こすまでのほんの数分。 その時間は、ほとんどの場合「思考」に明け渡されています。
でも、もしその数分を 思考に渡さなかったら、どうなるでしょう。
何もしない、とはどういうことか
「朝の5分、何もしないでください」
こう言うと、たいてい2つの反応が返ってきます。
「それだけでいいの?」と「それが一番難しい」。
どちらも正しいです。
何もしないというのは、 瞑想のように座り方を整えることでもなく、
呼吸法のようにカウントすることでもありません。
文字通り、何もしない。
目が覚めたら、すぐに起き上がらなくてもいい。 ただ、天井を見る。 あるいは目を閉じたまま、布団の温かさを感じる。
何かを「聞こう」としなくていい。 ただ、聞こえている。
その「聞こえている」に気づいている何かが、 すでにそこにあります。
思考が来ても、大丈夫
何もしない時間を始めると、 すぐに思考がやってきます。
「起きないと遅くなってしまう。」
これは失敗ではありません。 思考が来ること自体は、まったく自然なことです。
大切なのは、思考が来たことに「気づく」こと。
「あ、考え始めた」
それだけです。
気づいた瞬間、あなたは思考の「中」にいません。 思考を「見ている」側にいます。
前回お話しした、あの問いかけと同じです。
「今、考えているのは誰だろう?」
この問いが浮かんだとき、 ほんの一瞬、思考と自分の間に隙間ができます。
その隙間が、この実践のすべてです。
ここがポイントですね。
やり方は、ないのがやり方
ここまで読んで、 「で、正しいやり方は?」と思った方もいるかもしれません。
正直に言うと、やり方はありません。
あえて言葉にするなら、こうなります。
朝、目が覚めたら、5分だけ何もしない。目を開けても、閉じたままでも、どちらでもいい。 音が聞こえたら、聞こえるままにする。 思考が来たら、来たことに気づく。 それだけ。
タイマーをセットする必要もありません。 5分が3分でも、7分でも構いません。 「長さ」は、ここでは意味を持ちません。
切なのは、 「何もしていない時間の中に、すでに何かが在る」 ということに、ただ気づくことです。
小さなことが、深いところに届く
この実践は、あまりにも小さく見えます。
座禅を組むわけでもない。 マントラを唱えるわけでもない。 特別な場所も道具も要らない。
ただ、朝の数分、何もしないだけ。
でも、続けていると気づくことがあります。
思考が始まる「前」の瞬間があること。 音が聞こえている「場」が、いつもそこにあること。 「わたし」が動き出す前に、すでに何かが在ること。
それは、前回お話しした 「ただ、気づいている」という、あの感覚です。
特別な状態ではありません。 いつもここにある。 ただ、忙しさの中で見えなくなっていただけ。
朝の5分は、その「見えなくなっていたもの」に もう一度、目を向ける時間です。
続けなくても、いい
最後にひとつだけ。
「毎朝やらなきゃ」と思った瞬間に、 この実践は「タスク」になってしまいます。
やれた日は、やれた。 やれなかった日は、それでいい。
思い出した時にだけ、やってみる。 それで充分です。
なぜなら、この実践が指し示しているものは 朝の5分の「中」にだけあるのではなく、 いつでも、どこでも、すでにここにあるからです。
朝の静けさは、ただの入口にすぎません。
次回予告
次回は、「考えている自分」と「気づいている自分」の違いについて もう少し深く、でもやさしく、お話ししてみたいと思います。
日常の中の、ほんの小さな「あれ?」という瞬間。 その瞬間に何が起きているのかを、一緒に見てみましょう。
あなたの朝に、静かな隙間がありますか?


