
昨日の朝、つつじ寺として有名な
「等覚院」に行った。
誰もいなくて静かだった。
ツツジの季節は色とりどりの花を
楽しむことができるが、雪景色も
落ち着いた風情がある。
思考は一日中、頭の中を
駆け巡っている。
静かにしてよ!
と伝えても、自然に湧いて来る。
いつの間にか、
その思考が私だと思ってしまう。
生まれた時には、
思考もない。
ただ、本能に従って、
泣いたり、笑ったり、
多くの時間を眠って過ごす。
次第に、名前を呼ばれ、
いつの間にか、名前が
自分だと思い込む。
生まれた時の遺伝子。
その時の環境。
どこが基になり、
成長過程で知識を身に着け、
社会の中で生きる術を学ぶ。
私の名前、肩書、生活歴、
職歴、考え方などが自分だと
思う。
それが当たり前。
私の思考、感情、身体、行動が
私だと思って生きている。
その私は不安になる。
それは、私は一人の個人として、
人生を切り拓いて行く。
自己責任という重さ。
社会生活でどう見られているか。
誰もが自分に折り合いを付けて、
何とか世の中を渡っている。
ただ、何かが違う。
これが本当の自分だろうか?
そう思って生きて来た。
ふと、気づかされた。
私には、その様に生きている私と
もう一人のそれを見ている私が
いることに気づかされた。
そういえば、
小さい時から、考えたり、行動している自分。
その自分を見つめている自分がいるんだ。
その事に多くの先人は気づいていた。
「私は誰」
この問いは、長い間問われて来たし、
これからも問われるだろう。
簡単に言葉にできない、「私」がいる。


