
おはようございます。
「私」について思い浮かべると、
あやふやなことがわかります。
私は誰が作ったのだろうか。
私は私が作ったと思い込んできた。
本当にそうなのだろうか。
改めて私を振り返ると、
そこにはレッテルしかない。
私は○○であるとしか
浮かんでこない。
名前は、性別は、身長は、体重は、
住所は、職業は、家族は、
まるで、カルテの問診の
ようだ。
ただ、その私とは別の私がいる。
考える私だ。
今日はなにをしようか。
明日の予定は。
昨日は何をしたか。
これらが、次から次へと
浮かんでくる。
少し深い私を感じると、
そこにいる私は、常に
判断している私がいる。
それらは、生まれながらにして
持っているのだろうか。
年と共に徐々に変わって来た。
まるで、登山の様に上に登る
につれて見える景色は変る。
ただ、人生の登山は、
頂上が見えない。
小さな目標は達成しても、
次の目標が目の前にある。
連なった山をひと山超えると、
次の尾根へと続いて行く。
私たちは目標達成の為に
生きているのだろうか。
目標があるということは、
常に満たされない思いがある。
未だ、未だ、もっと先に
ゴールはあるんだ。
小さな尾根を越える度に、
小さな満足がある。
しかし、尾根道は続く。
まるで、目の前にニンジンを
ぶら下げられた馬のようだ。
幾ら歩いてもニンジンは
手に入らない。
私たちは延々と尾根道を
歩くのか。
或は、ニンジンを求めるのか。
心から満足できるのは
どの様な状態なのだろうか。
私とはどんな存在なのだろうか。
生きがいとは何なのだろうか。
人生のゴールは何処にあるのか。
この疑問の元はどうやら
「私」にあるらしい。
多くの人は「私」について
深く見つめていないのでは
ないだろうか。


